法然上人の生涯③ ~下山・弘教から『選択集』撰述まで~

廻心によって法然は自身の出離解脱の道については確信を得たものの、「専修念仏」の教えが人々に受け容れられるか否かについては迷っていました。

するとある夜、夢に善導が現れ、専修念仏の教えを弘めようとしていることが尊いから来現したと告げられました。この夢中での善導との対面を【二祖対面】といいます。

これによって法然は比叡山を下山し、まず念仏の専修を実践していた遊蓮房のいる西山の広谷に向かうことにしました。その遊蓮房の往生を見届け、専修念仏の正しさを確信した法然は、東山の大谷の吉水に居を移し、これ以降、一時的に嵯峨、賀茂の河原屋、小松谷などに住した以外は、吉水を拠点として弘教してゆくこととなります。

文治2年(1186、一説には文治5年)、当時54歳であった法然は、後に天台座主となる顕真の要請によって、大原で重源等の諸宗の学匠を前に自らの教えを述べ、それに関して談義を行いました。これを「大原問答」(もしくは「大原談義」)といいます。

さらに同6年2月、法然は重源の請いによって、再建中の東大寺で、南都の僧侶たちを前に「浄土三部経」の講義を行いました。これは「東大寺講説」などと呼ばれています。

これら二つの出来事を境に、多くの門弟や信者が法然の門を叩くようになりました。おそらく法然教団のようなものが成立したのは、この頃からと考えられる。

60歳代中頃から法然は病気に悩まされるようになりましたが、特に65歳の建久8年(1197)秋から翌年にかけての病状はかなり重篤で、4月には『没後遺誡文(もつごゆいかいもん)』という遺書までしたためられました。

そうした中にあって、九条兼実の要請をうけて著されたのが『選択本願念仏集』(『選択集』)であります。弥陀・釈迦・諸仏が称名念仏のみを「選択」していることを示して、「専修念仏」の根拠の確立を目指した書物といえます。

この『選択集』執筆と同時並行的に、法然は念仏中に極楽の有り様が目の前に現れるという「三昧発得」の体験を持つようになります。「三昧発得」はこの後も断続的に現れ、建仁2年(1202)、法然70歳のときには、ついに阿弥陀仏にもまみえていました。この体験を記録したのが『三昧発得記』です。

正法寺/shoboji

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