法然上人の生涯②~天台修学から廻心まで~
15歳(もしくは13歳)にして比叡山へ登り、まず西塔北谷の源光の弟子となりましたが、源光も浅学なる自分にはとても指導はできないと考え、功徳院の皇円の元に送ることになります。
そして久安4年(1148)11月、16歳にして皇円(ただし『別伝記』では叡空)の元で正式に出家受戒を遂げ、それ以後、天台60巻を学びます。
周りから将来を嘱望された法然でありましたが、自身は名利を断ってひとえに仏法を学ぼうとする志深く、18歳のとき、ついに皇円に暇を告げて西塔黒谷の叡空の元に遁世・隠遁することにされました。
法然と対面した叡空は、法然が年若くして出家した動機を聞き、「法然道理の聖」であるとして「法然」という房号を、また師の「源光」と「叡空」から一字ずつ取り「源空」という諱を授けました。
24歳のとき、叡山を下りて嵯峨釈迦堂に7日間参籠した後、興福寺に法相宗の蔵俊、醍醐寺に三論宗の寛雅、仁和寺に華厳宗の慶雅といった学匠を訪ね、各宗の教えについて論談されますが、法然の学識にみな舌を巻くばかりであったといわれています。
しかし結局、出離解脱の道を見出すことができず、黒谷に帰って経蔵の報恩蔵に籠もり、一切経を開き見ること五遍、その中で『往生要集』に導かれ、聖道門を捨てて浄土門に帰しました。
ただし、それでも往生そのものは難しいように思えたので、さらに修学を続け、『往生要集』に引用された善導の「百即百生」の文に注目して善導の著作を読むこと三遍、ついに
「一心専念弥陀名号行住坐臥不問時節久近念々不捨者是名正定之業順彼仏願故」
の一文に至って廻心し、「専修念仏」(「一向専修」)の教えを見出した。ときに43歳でした。
現在、浄土宗ではこの年をもって浄土宗開宗と見なすとともに、この「一心専念」の文をもって「開宗の文」と位置づけています。
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